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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第153回 サーロインステーキ 2017/3
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 土曜日の午後6時過ぎ。
 小学5年生の神谷悠太君が、不安いっぱいの表情で電車に乗っています。いくつか席が空いているのに、つかまり棒をぎゅっと握って立っています。
 かあじいちゃん…。
 心の中でそう呼ぶだけで、悠太君は胸のあたりがぎゅうっと苦しくなります。
 かあじいちゃんとは「かあさんのほうのじいちゃん」を短縮した呼び方です。
 目下悠太君は、かあじいちゃん宅に向かっているところですが、実は昼すぎにも一度訪ねたのでした。
 電車に乗る時間は10分間。昼のときはわくわくの10分間でしたが…。
 もし、かあじいちゃんが死んじゃったら、ぼくのせいだ。
 
 昨日は悠太君の誕生日でした。
 夜に兄の慎太君と両親に囲まれてステーキハウスで誕生会を開いてもらった悠太君は、はじめて本格的なステーキを食べて、世の中にはこんな美味しいものがあるのかと大感激し、病気になって自宅で寝ていると聞いた大好きなかあじいちゃんにも食べさせてあげたいと思ったのでした。
 ほかのお客さんが持ち帰り用のステーキを頼んでいるのを見て、その方法でかあじいちゃんに届けようと決めました。
 そして今日になり、貯金箱からためたお小遣いを取り出し、ステーキハウスに行って、昨日自分が食べたのと同じサーロインステーキを持ち帰りにしてもらい、大切に持ちながら電車に乗ったのでした。
 悠太君の突然の訪問にうれしそうに驚いて、そして美味しそうにステーキを食べるかあじいちゃんの様子を想像しながら、スキップしたい気分――ステーキを持っているから実際はやらない――でした。
かあじいちゃん宅を訪ねてみると玄関が開いており、あがってみるとかあじいちゃんひとりが、自室でベッドに横たわっていました。家のことを行う節子おばちゃんは、近くの郵便局に行ってじきに帰ってくるとかあじいちゃんは言いました。かあじいちゃんは、前よりも声が小さく、言葉もぼそぼそというふうでしたが、悠太君の来訪をたいへん喜びました。
「これ、昨日、ぼくが食べたのと同じサーロインステーキ。もう、信じられない美味しさでさ、あんまりおいしいもんだから、おじいちゃんにも美味しい思いしてもらいたくなって」
「ど、どこの店のだ」
「うちから歩いて一分もかからないステーキハウスだよ」
「そこで買って、電車に乗ってわざわざ持ってきてくれたのか。高かっただろ」
「そのくらい貯めてあるから」
「悪かったなあ」
 悠太君は、かあじいちゃんに頭を撫でられて、照れました。
「悠太、ありがとな。心配させて悪いな。いまはお腹一杯だからあとで食べるから」
 かあじいちゃんは顔をくしゃくしゃにして泣き出しました。
 うれし泣きとはいえ、かあじいちゃんが泣いたのをはじめてみた悠太君は、なんとなくいたたまれない気持ちになって早々に帰ってきたのでした。
 帰宅すると、今朝から喧嘩中の中学1年生の慎太君が帰ってきていました。
 居間でテレビを見ている慎太君と目があった悠太君は、ぷいっとそっぽを向き自分の部屋に行こうとしました。
 すると慎太君が低い声で、
「おまえ、せっかくためた貴重な小遣いを、どうせつまんないものに使ったんだろ」
「なんで、使ったのわかったんだよ、何につかったって関係ないでしょ」
「貯金箱の蓋を開けたままにしてるからすぐにわかったよ。おまえってそういう間抜けがとこあるから」
 二人はひとつの部屋を共有しています。
「ふん。けちけちして、お金を、自分以外の誰かのためになんて使ったことにない誰かさんとは違うから。牛乳を飲んじゃったくらいで、ばかみたいに怒る人間でもないし」
 悠太君がそう切り返しました。
 今朝、喧嘩がはじまったきっかけは、慎太君が飲もうと心づもりしていた牛乳を悠太君が飲んでしまったことにありました。
「おまえ、何にもわかってないな。人間関係っていうのは、細やかな気遣いで成り立つんだよ。おまえって、周りのことぜんぜん見えてないもんな。ぼんやりしてて、人の話聞いてないこと多いし。おまえだって、誰かのためにお金なんて使ってないだろ」
「そんなことないよ! いまだって…」
 悠太君は、いましがた、かあじいちゃんにサーロインステーキを届けてきたことを話しました。
 すると、慎太君は「え?」と驚きの声を出してあわてた様子になり、スマホを操作して耳にあて、
「電話出ないぞ、かあじいちゃんち。かあじいちゃんも携帯出ないぞ。だから、おまえは。昨日、母さんたちが話してただろ、聞いてなかったのかよ。かあじいちゃんは、食べ物がうまく飲み込めなくて、むせるようになって、肺炎になって入院して死にそうになったんだぞ。いまだって、飲みこみが心配だから、看護師さんらと相談して慎重に、むせないものを選んで、それも誰かがいるときに食べているって言ってただろ」
「え? いつ言ってた?」
 悠太君は消え入るような声で聞きこました。
「昨日、ステーキハウスでだよ。かあじいちゃんのことだから、おまえがわざわざ持ってきたんだからって、無理して食べるかもしれないだろ。そしたら、むせて、そしてまた肺炎になって、それで死んじゃったら、おまえの責任だからな。家の電話にでないってことは病院に行ったのかもしれないだろ。どうすんだよ! それに、おまえがいくらうまいと思ってもかあじいちゃんがステーキが好きかどうかわかんないだろ、勝手に好きだって思い込んだんだろ」
 それで悠太君は、状況を確認するために取り急ぎかあじいちゃんの家に向かっているのです。
 
 駅に降りてダッシュしようと思っていた悠太君ですが、足がすくんで走ることができません。
 そして三年前の出来事を思い出します。かあばあちゃんが急に具合が悪くなったと報せがあり、家族四人で家に駆けつけたとき、かあばあちゃんは病院に運ばれ、一緒に住んでいるおばちゃんたちもみんな病院に行っていたため、家には誰もおらず、急いで病院に向かうことにしたとき、亡くなったという電話があったのだった。
つぎに悠太君は、慎太君の言葉を思い出します。<ぼんやりしてて、人の話聞いてないこと多いし>
悠太君は、泣けてきそうになりますが、泣いてしまうとさらに歩くのがおそくなってしまうと思い、ぐっとこらえます。
かあじいちゃん宅が悠太君の目に入ります。もう、あたりが暗くなりはじめたのに電気がついていません。不安がさらにふくらみます。
とにかく玄関まで行き、玄関チャイムを押してみましたが、なんの返答もありません。やはり、病院へ行ったのか。もしかして節子おばさんも一緒に救急車で行ったのか。
どうしよう。
悠太君は途方にくれて玄関ドアの前に立ちつくします。
と、そこへ、
「あっ、あれ? 悠ちゃん?」
節子おばさんです。
「あっ」
「悠ちゃん、ものすごく高級なサーロインステーキ! 父さん、すごく喜んでね。あっ、チャイム押さなかったの? そうだ、父さん、最近、耳栓して寝るから、いま聞こえてないのかも。あれ? どうしたの? 具合悪いの?」
「あっ、かあじいちゃんは、ステーキを食べたの?」
「それがね、ちょっと病気の関係で食べられないから、その代わりって言って、父さん、何十枚もあのステーキの写真撮ったのよ、悠太のステーキだって言って」
 そこへ、悠太君の携帯に慎太君から電話が入ります。
「そういえば、昨日、母さんたちがかあじいちゃんの病気の話したのは、おまえがトイレに行ってたときかも。それと、じいちゃんは入院はしたけど、死にそうになったっていうのはオレがちょっと話を盛っちゃったから」
 悠太君はほっとしてその場にへたりこみました。

 悠太君と慎太君は、その後も変わらずに仲良く兄弟喧嘩を繰り返しているそうです。

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